台湾紀行

画像1)格安ツアー

4泊5日の台湾旅行が、お一人様49800円と言う広告につられて、彼女とデートをすることにした。これは、いつもの辺境旅行とは違う、買物ツアー。一日1-2回はおみやげ物店に連れてゆかれる。その分、観光時間は削られるが、皆が買うお土産のバックマージンだけ、ツアー料金が安い。デートなので、18000円追加して、ホテルをランク・アップしてもらった。燃料サーチャージやオプショナルを含むと、結局、ひとり9万円ほどになったが、それでも、国内旅行よりだいぶ安い。因みに、このツアー、5月1日出発は、約3倍のお値段になる。

ツアーは70人の大グループ。2台のバスに分乗しての旅である。それにしても、女性軍はお土産をよく買う。僕はお土産に興味がないので、手持ち無沙汰。おみやげ物屋を出て、近所を散歩。その成果が、上の写真である。花は、香港桜の異名を持つボヒニア系の交雑種で、艶紫荊。こちらは、香港蘭ともいうらしい。常緑樹で、春と秋に咲くという。


2)日月潭

成田を午後に出発、日本からの添乗員はいない。台北空港で、現地ガイドの朱さんが出迎えてくれた。昭和7年生まれで、6年生まで日本人教育を受けたという。完全な日本びいきで、こちらがこそばゆくなる。

台北空港から、台中のホテルまで約2時間。道路わきの森には、嬪老椰子の木が目立つ。台湾の人々は、この実を噛む。習慣性のある、興奮剤らしい。昔の日本のタバコ屋でも、看板娘がいたが、台湾の嬪老椰子売りにも看板娘がいる。道路わきの間口一軒ほどの小屋で、ビキニ姿の娘が、これ見よがしに座っている。女子学生のアルバイトも多いとか。ガイドが、バスを止めて、運転手のために、びんろーを買ったら、ビキニのお嬢さんが、バスに乗り込んできて、にこやかに手を振ってくれた。

翌日、台中のホテルを出て、海抜780メートルの、日月潭まで山道を登る。台湾でもっとも有名な観光名所・日月潭は、日本の統治時代に作られた、発電用のダム湖。太陽と三日月の形をした二つの湖あった山間の窪地に、濁水渓から、水を引き込んで、堰き止めて、現在の一つのダム湖が出来上がった。朱さんによると、子供の頃に始めて、家に電灯がついたのは、このダムのおかげだと言う。1919年、台湾総督・明石元二郎によって企画され、1934年に完成した、このアジア最大の発電所は、現在でも稼動していて、台湾の水力発電の半分以上を占めるという。水没する村から、移設されたのが、日月潭の岸辺にある文武廟。4年の歳月を使って移設されたと言う。

日月潭から台南に向かう道すがら、烏山頭ダムの脇を通り過ぎた。台湾総督府の技師・八田与一によって、十年の歳月をかけて創られたこのダムは、嘉南平野を灌漑し、台湾の耕地面積を14%増加させたと言う。八田与一は、日本ではあまり知られていないが、台湾では台湾農業の大功労者として、歴史の教科書にも載せられている由。朱さんの日本びいきが判る気がした。


3)和唐内

歌舞伎の好きな人なら、和唐内。近松門左衛門の国姓爺合戦に出てくる日中の混血児、和唐内=鄭成功、幼名、田川福松。台南は、その和唐内の拠点である。
台南の赤崁楼は、鄭成功が、1662年に、オランダから取り返した城砦あと。明の滅亡後も、台湾を拠点にして、清朝と戦った鄭成功は、台湾の歴史上、最初の独立国。現在の台湾と立場がよく似ている。徳川幕府に、たびたび使者を送って、援軍を求めたが、朝鮮出兵に懲りた幕府は静観。幕府に見殺しにされた鄭成功への同情が、近松の国姓爺合戦を産み、歌舞伎となって、庶民に流布、お座敷遊びの、虎拳を生んだ。和唐内(槍を持つ)、その母(腰を曲げて杖を持つ)、虎(四這になる)、で勝負するじゃんけんである。
独立を目指す台湾にとって、鄭成功は歴史上の偉人、日本と台湾の友好のシンボルでもある。台南の延平郡王祠は、その鄭成功の祠。その脇には、母親である田川氏の像も祭られている。その似顔絵は、李香蘭(=山口淑子)そっくりの美人。長崎で活躍した大海商・鄭芝竜の好みらしい。

台南から、台湾第二の都市、高雄へ。此処は工業都市、特筆すべきものはない。信号が赤になると、スクーターが、一斉に並ぶ。カラフルなヘルメットとあいまって、なかなか面白い。家々の屋根には、缶ビール広告が並ぶ。よく見ると、ドラム缶の4倍くらいの貯水槽。なかなかいいアイディアである。
高雄円山大飯店でチェックインのあと、ホテル脇の澄清湖を散策。工事中の蓮池潭をちらり見してから、寿山公園に登って、高尾の夜景を眺め、夕食後は六号路の夜市を散策。


4)高砂族

台湾は、西部が平野、東部は山岳地帯である。台北から高雄まで、西部を走ってきた我々は、さらに南下、南回り公路で峠を越え、北上して、台東に向かう。東海岸は切り立った崖が多く、平野は殆ど無い。平野部には漢族が多いが、山岳部には先住民が多い。
台湾の先住民は、高砂族と呼ばれる山岳民族。でも、その祖先は、ポリネシアの航海民族らしい。移住してきた時期や、出発した場所の違いから、沢山の部族があって、互いに言葉が通じない事も多い。そのときは、日本語が共通語になるという。これは、日本の統治時代の教育の成果である。1904年の台湾人児童の就学率は3.8%であったが、日本統治の最後の1944年には71.3%に到達していた。
台湾を植民地として支配するか、日本人として同化吸収するかと言う議論があったが、日本政府は、同化吸収政策=皇民化政策を選んだ。この政策は、高砂族には成功だったようである。今でも、日本名を誇らしげに語る老人に出会う。でも、同じ政策を先進国の朝鮮に採用したのは、大失敗。朝鮮族は、ユダヤ民族と並んで、世界の何処に行こうとも、けっして「民族の誇り」失わない双璧である。

これといって何もない海岸や洞窟を見ながら、海岸沿いの道を北上、花蓮に向かう。途中、珍しい果物のお味見。イチジクのような形をした蓮霧は、スカスカの林檎のようだが、さらっとして美味しい。お釈迦様の頭に似た、釈迦頭はマンゴーに似た味。この二つは、僕の初体験でした。

花蓮では、高砂族の一つアミ族のダンスを見る。フィリッピンのバンブーダンスにそっくり。彼らの故郷はそのあたりなのだろう。


5)タロコ峡谷

花蓮近郊にあるタロコ峡谷は大理石の峡谷。そこ此処に、美しい大理石の脈理が走る。でも、この峡谷は日本軍と高砂族との戦場でもあった。日本の統治が終わる頃になって、高砂族は、アイヌと同じように、日本人の一部族になったが、占領初期には、獰猛な首狩族として、恐れられていた。

日清戦争が終わった直後、台湾にも独立運動が起こった。清国の中の、一王国を作る為の戦いもあり、部族の王国を作るための戦いもあった。もちろん、共和国を作るための戦いもあった。これらの戦いを通じて、幾多の台湾人が殺戮されたのは、事実である。でも、彼らはそれをあまり口にしない。
日本が負けたあとに、入ってきた中国軍による弾圧があまりにも大きかったからである。台湾の独立運動を押さえるために、11万人あまりの知識人達がどこかに連れ去られ、現在まで誰も帰ってきていない。台湾の厳戒令は、1949年から1986年まで、続いた。共産軍との戦時体制というのが、表向きの理由だが、独立運動を押さえるのが、目的だったらしい。台湾が本当に開放されたのは、国民党の支配が終わってからである。

花蓮から特急列車で台北に戻る。なかなか快適な列車である。
台北の故宮博物館は、団体客で込み合っていて、とても博物館の雰囲気ではない。行くだけ無駄である。忠烈祠の衛兵の交代式には黒服の護衛が付いていた。衛兵に護衛が付くなんて、変な感じ。何が問題なのだろうか。


6)円山大飯店

台湾神社の跡地に建てられた迎賓館。今は、グランド・ホテルになっているので、是非一度泊まってみたいと思っていた場所。それが、このツアーで実現した。しかも、なんと幸運にも、コーナー・スイート。20畳ほどの談話室と、20畳ほどの寝室。それに、8畳ほどの洗面所と脱衣場。コーナーなので、ベランダも2面。こんな豪華な部屋に泊まることは、多分もうないだろう。せっかくなので、ルームサービスを頼んで、夜遅くまで、二人で杯を傾けた。部屋から見える台北の夜景も素晴らしい。

翌日は、のんびりと出発、台湾民主記念館にゆく。この建物は蒋介石の記念館であったが、今ではその趣旨を変えて、民主化記念館になっている。蒋介石の銅像の前では、平和の象徴である凧やトビウオが、これ見よがしにいくつも舞っていた。独立運動弾圧の反省材料なのであろうか。歴史的に見ても、台湾やチベットは中国ではない。

今回の旅行、観光面では物足りなかったが、台湾の歴史を見直すチャンスになったことと、ホテルが素晴らしかった事で、報われた気がした。

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